徒然なるままに


★秋の道は気まぐれ 2021.10

 

 秋の夜長とはいえ,夜まで慌ただしい日々が続いています.宣言も明けて,のんびりと外出もしたいものですが,今月は悉く土日が埋まっています(何故か,自然に埋まっていく…).そうした中,最近のちょっとしたマイブームが”毎朝の通勤路を少しだけ変えること”です.以前は電車通勤が主流でしたが,数年前から車通勤が主流になりました.国道を走れば最短距離ではありますが,それもちょっぴり飽きてしまっていたので,まぁ着けばよいか,と気ままに走り始めたところハマってしまいました.交通量が少なく,窓から入る秋風がなかなか心地よいのに加えて,青空と色づく稲穂と咲き乱れたコスモスと…を目にも楽しみます.今まで気がつかなかった道の駅の存在も知りました(某先生はここで〇〇を買っているのか!と気付いたり).

 今日,研究室からおそらく今年最後のセミの声を聞きました.誰ももういないのに一匹ひとり寂しく鳴くクマゼミの声の切ないこと…そろそろ衣替えですね.


★だからSNSができない 2021.8

 

 少し前の新聞記事から.思いがけず日本経済新聞(7月14日朝刊)で見つけたのは『「普段着の日本語学ぼう」 哲学者が説く論理力の鍛え方ー言葉の断片化,とても危ない』という記事です(偶然ですが,取材を受けていたのは立正大学文学部の教授でした).社会的に論理力が求められている中,SNSの利用を通じて背景や前後関係が曖昧な”断片化した言葉”が増えたこと等が,言葉のつながりを読み取る力を弱めているのでは,という指摘でした.

 特に共感したのは,タイトルにもある「普段着の日本語」です.「論理を柱にした国語」であり「理科や社会などすべての科目に共通する土台のような働きをする」と紹介されています.そのためにも「国語の先生方にも英語教師が構文を教えるように語学としての日本語を教えてほしい」と書かれていました.私自身が”国語はすべての科目の基礎”と教えられて育ったこともあり,大きく頷きながら記事を読んでいました.国語教育が軽んじられているとも感じており…

 話はややそれますが,学生に読書感想文を課しています.文章全体にまとまりがなく,単体で孤立した文が集まっているだけに見えてしまうレポートも散見されます.学生の皆さんは書き上げた後に再読はしているとは思うのですが,”不自然な日本語”に気が付けないのかもしれません.垣間見えるレポートの着眼点がよいだけに,自分の思考がうまく文章化されていないのはもったいなく感じます.

 オンライン授業の導入に伴って,メール以外にもチャット機能を多用する機会が増えました.社会でもSNSによる連絡が主流になっているケースもあるそうですが,断片化した言葉を生むことを助長させてしまっている教育活動に違和感を覚えずにはいられません. 


★”外”への想い 2021.7

 

 学科HPのトップページで毎月更新している「今月の地理写真」の7月分を担当しました(こちら).2年前にこのHPの「最近の動向」でも紹介したダブリン近郊のグレンダーロッホの写真です.学科内にやはり以前同地を訪ねたことがある教授がいらしていて,少し話に花が咲きました.締めの「またいけますよね」という教授の一言に,改めて私自身も「海外に行きたがっているなぁ」と自覚した次第です.
 話はやや変わって,最近のマイブーム?が通勤時のラジオだったりします.少しでも外国語に触れたいという欲の表れか,あるいはたまたまチャネルを合わせたときに耳にした洋楽(まったく詳しくありません)が,高校時代に部室近くの柔道場からいつも流れてくる音楽だったための懐かしさか(柔道場はダンス部の活動場所でした).何に味を占めたかわかりませんが,ランダムに流れる洋楽や時折のニュースやトークを聞き流すのが楽しくなっています.

 これまで海外に行く契機は学会や実習が大半でしたが,心身が海外の刺激を欲しがっているなぁと自覚できると,事態の収束後にはもう少し好きに出向いて,その方々で見て・聞いて・話して・撮ってくることをもっと楽しみたいかなと思う今日この頃です(海外で調査もしたい…)

 

右の写真は上下どちらもダブリン市街にて

建物の構造や空間の使い方を目と体で楽しむのがかなり好きです


★他愛ない”授業への思い”から 2021.6

 

 感染対策をとりながら,対面で授業(実習科目)を行なっています.実習に用いる機材や教材の準備,段取りの確認等々,教員の苦労はさておき,実習をする学生たちの姿を目して安堵する宇津川です.

 自然地理に関連した実験・実習に取り組む「自然計測実習」は,基本的にグループワークで実施しています.学生同士が協力し合い,コミュニケーションをとる姿を見たり,教員が直接会話をしながら助言やサポートをしたり.当たり前ですが,その当たり前が制限された昨年度を考えると”貴重な機会なのだな”と改めて感じ,学生にその機会を与える側としては身の引き締まる思いがするのです.

 


★"ら"抜きサラダ 2021.4

 

 豆腐サラダにはまっています.ドレッシングと豆腐とサラダ(1人用.トッピングが異なる)の組み合わせを変えて毎晩楽しんでいるのですが,ある日手に取ったサラダが大変印象に残りました.
 コンビニでも袋に入ったサラダがよく店頭に並んでいますが,丁寧に「洗わずにそのままお召し上がりいただけます」のようなお知らせが書かれています.ある日,自宅近くのスーパーで手に取ったサラダの場合,同じような言葉が商品名としてしっかり書かれていました.曰く「そのまま食べれるサラダ」.思わず,二度見してしまいました.食べ"ら"れる,ではないのだな,と.
 街頭インタビューなどの映像でも,発言上では"ら”抜きでも,画面のテロップでは"ら”が補完されていることがよくある中,商品名が”ら”抜きとは,と驚きました.
 そう教えられ続けてきたから意識がやや強いのかもしれません.一方,日本語は変化するものだとも教えられてきました.ただ,どうにも違和感が拭えない(多分)波に乗れない宇津川です.


★「ちょっきり」でも良いと思う 2021.2

 

 今は昔,とある調査中に礫径を測っていたときのことです.共同研究者から,突然「”ちょっきり”という単語は宇津川から聞いて初めて知った」と言われました(一緒にいた学生も知らなかったそうで).特に意識して使っていたわけではありませんが,測った礫径が切りのよい数字であったときには「30mmちょっきり」などと使っていました.てっきり共通語だと思っていました.

 国語辞典(旺文社第11版)によると,はじめに<俗>とあり「①ちょうど.きっかり.②はさみで断ち切るさま.ちょきり.ちょきん」とありました.言わずもがな,礫をはさみでちょきんしたかったなどということはありません(ジャンケンの常識).

 方言辞典が手元になかったので仕方なくインターネットで検索しましたが「北海道の方言」とまずは出てきました.福岡ではないのか…やはり図書館で詳しく調べてみたい.この続きはまたいずれ.

 ちなみに”ちょっきり”の英語は”just"になるそうです.別に”ちょっきり”でもよいではないですか.


★はじめまして,フライ 2021.1

 

 立正大熊谷キャンパスに着任してしばらくした頃,先生方から「フライを食べに行こう」と度々お声がけいただくことがありました.嬉しいと思いつつも,今だからこそ正直に書きますと,内心宇津川は”ちょっと困ったな”と思っていました.宇津川は揚げ物がそれ程得意ではないからです.ただ,先生方のお話を聞いているとどうもフライは”揚げ物”ではないらしい,と気付き,Googleに教えてもらったフライは,小麦粉を使った熊谷や行田周辺の名物料理でした(熊谷市役所HP).

 耳にばかりしていたフライに,本日はじめて対面しました.お店によってそれぞれ工夫されたフライがあるようですが,宇津川にとってはじめてのフライは焼きそばがサンドされているもので,長径27cm,中間径13cm,短径3cmの”大物”でした(写真).フライは少しもちっとした感じがしてお好み焼き?のようでした.

 ところで,先日,地理学科の松井教授の最終講義が行われた際に「ゼリーフライ」というNew wordを知りました.ゼリーなフライ…未知の世界,望むところです.まだまだ勉強不足・要修行の宇津川です.


★大学で学ぶということ 2021.1

 

 思うように野外に出られず,悶々とするレキ女の戯言をひとつ.

 対面が叶わなくなった大学では,多くで双方向・オンデマンド・資料配信のいずれかの方法によるオンライン授業が導入されています.「これでは通信大学だ」という非難の声もよく耳にします.私自身が学生であってもやはり素直に受け入れられていたかというと,性格上そうでもないだろうな,と.とはいえ,大学での学びは元々自由です.シラバスこそあるものの,教員によって授業の展開は異なりますし,対面でも授業の面白い・退屈はどうしてもあります.

 学生そして高校生の皆さんには,大学の授業は「学びの入口」に過ぎないという認識をしてほしいといつも思っています.授業で扱われた内容が全てではなく(全てを扱うのはどの分野でも基本的に無理です)大学の授業では教員の思想(思考)も大いに加わっています.受講後の”よくわからない”や”もっと知りたい”という気持ちの昇華は学生自身で行なってこそ”大学生”ではないかと思うのです.図書を探して読んだり(読解力は社会でも必要です),教員に尋ねたり(まず先に自分で調べてからですが),友人と議論したり(これがオンラインでは厳しいところです)….受け身の学びは高校までで終え,自ら掴みに行く学びを大学では実践してほしいなぁとどうにも思うのです.

「学びを広げられる場所:図書館の利用」「何故,大学=モラトリアムという構図ができているのか」という話も書きかけたのですが,これはまた近日に…

小川町にて.コスモスを見るとふと哀しさを覚えます.小学校の国語の教科書に載っていた『一輪の花』の話が強く印象に残っているからかもしれません.

イメージ画像?
(トリニティ・カレッジ図書館にて撮影)

大学構内を流れる川のほとりで(花菖蒲を添えて)

★全デジタルの良さを教えて 2021.4

 

 普段からふと思う,レキ女の戯言を再び.
 デジタル教科書の本格的な導入が怖くてたまりません.必要とする児童・生徒がいることは理解しています.しかし,教科書全てをデジタル化してしまうことへの危険性を強く感じており,ニュースや記事を目にする度にどうにも落ち着かなくなります(やりきれなさにも似ています).

 一番怖いのは(世間の議論とはずれているかもしれませんが)健康への影響です.自分自身のことを書くのもなんですが,昨年度オンライン授業準備で長時間PCに向かっていたからか,片目の視力が落ち,ひどい頭痛と肩こりに悩まされました.子どもの頃から四六時中端末に向き合う学習環境というのはどうでしょうか…
 もうひとつは図書(紙媒体)離れです.ページをぱらぱらとめくることで思わぬ”出逢い”を得られる図書と比べて,電子媒体はその機会が極めて小さくなります.ぱらぱらとめくることができる構造こそ,紙図書の醍醐味ではないでしょうか.教科書も,然り.いずれ図書室の本も電子書籍だけが並んで,貸出も返却も全てタブレット上で?……そんな馬鹿な.
 朝日新聞の4月9日朝刊で新井紀子先生の記事を読みました.感想はただ一言.「同感」です.


長径は40cmちょっきり…くらいの凝灰岩(多摩川で撮影)

何となく下の写真と似ている?

今回ご馳走になったフライ

折尺がきちんと置けていないあたりが要修行です

(空腹だったから,ということで)

家の近所で蝋梅だけではなく紅梅も咲いているのを見つけました.

春よ,今年はちょっと早く来い.

(写真は数年前に実家近くで撮影したものです)